雑記2019/03/03「香りがぶつかってくる」「涙の演出効果」

2019/03/03

●香りがぶつかってくる

良い香りは、漂うものだと思う。ふわっと。強くても、ぶわっとくらい。強い香りは、ぶつかってくる。緑色の濃いカルダモンを大量にミキサーで挽いて蓋を開けると、バンッときた。急に大きい音がすると、体がびっくりするけど、それが匂いでも起こることを知った。カルダモン単体では良い香りだけど、あんまり収束すると、ガツンと来る。刺激物だと思う。気つけに良いかも。アンモニアみたいなものか。

●涙の演出効果

涙はこらえるもの。涙は見せないもの。涙は隠すもの。と、一般的にはされていると思う。泣くのは、感情のコントロールができない、と周りに知らしめることだからなのか。はしたない、とか、子供っぽいとか、そういうことか。わからないけど。まあ、それが前提として、でも泣いちゃう、がある。とてもあやふやな立論だけど気にしない。泣かない、けど、泣いちゃう。だから、男泪の落とし差しが演出として成立する。大利根無常。

こらえきれないほどの感情なんだね。だから泣く。そういう演出。あくまで、普通は泣かない、泣くべきではない、という規範ありきの、でも泣いちゃう。泣ける映画、泣ける本、と連呼するのは、その前提を揺るがすから、あんまりよくないと思う。でも、ここまでは、ある意味正統な、涙の演出効果だと思う。もう一歩進んで、自然と涙が流れる、まで行くと、怪しくなってくる。その涙はどんな演出効果を生むのか。大抵、それは、悲しくて泣いているのではない。感動して泣く。美しいとされるものを見て泣く。芸術作品を目の前にして、自然と涙が流れる。雄大な自然、雄大な自然ってすごく手垢のついた言葉だけど、そういうものを見て、自然と涙が流れる。あふれることもある。涙があふれる。さらにひとひねりして、なにげない空を見て泣く。もう何でも泣ける。こんにゃくを見ても泣ける。ただの情緒不安定。自然と泣いているのだから、泣いている本人は、泣くことに自覚的ではありえない。だから、泣かないけど泣いちゃう、泣くべきでないけど泣いちゃう、というルールに則った、平手造酒の涙とは違う涙だと思う。気が付いている人もいるかもしれないけど、ここで僕が考えているのは、SNSの投稿。自分という登場人物に、涙を流させることで、投稿者は、なにを伝えたいのか。自分がどういう人間であることを伝えたいのか。「結婚式で娘を嫁に出して泣いちゃいました」なら、まあふつうだけど、「空を見上げて自然と涙があふれました」だと、解釈にこまる。感受性の豊かさを、みずみずしさを、かんじやすさを、表現したいのか。随意でない反射として涙を流れさせているのか。それなら、自然とあふれる涙は、失禁と一緒ではないか。なんとかさんの芋版画を見て自然と涙があふれました、と、芋版画を見て失禁しました、は同じ意味ではないか。同じではないか。何に感動しているのかを言葉にできないから、手軽な演出として、涙をつかっているのかもしれない。頭も涙腺もゆるいのか。

●涙、次の段階

ちがう、嫌な味を感じることもある。泣くことを、オープンにする、という姿勢。別に良いと思う。泣けばよいし転がれば良い。泣く、という行為にそこまでの意味を持たせず、ただ泣くのだと。だから、泣くことをオープンにしよう、と。わかる。わかるよ言いたいことは。ただ、それは、性についてオープンに語ろう!と大きな声で言うのと似ている。性についてだって、語ればよいし、好きなように性を実践したらよいと思う。どうぞどうぞ。大したことじゃない。でも、本当に大したことではないと思っているなら、大声で語ることもない。当たり前のことだから。知り合いの、僕と同じ30歳の男が、「男女は平等なんです!!」というようなことを大声で言っていて、びっくりしたことがある。こいつは穴倉で50年くらい暮らしていたのかと。平等なんて当たり前で、それを大声て言うということは、君の中になにか男女の勾配があるのかい?と聞きたくなる。それと似た構造。泣くことがふつうのことで、当たり前のことで、隠すことでもないのなら、それをあえて書く必要もない。それこそ自然と、事実として、泣いた、と書くことはあるだろうけど。そうではなく「感情を解放しよう、泣くことは恥ずかしいことじゃない」と読み上げるような匂いがすると、げんなりする。滑稽でもある。そういえば、黒子のバスケ、たしか敵キャラの初登場シーンだったと思う。「俺の邪魔をするなら、親でも殺す」みたいなことをしゃべらせていて、おかしみをかんじた。そうか、やっぱり親は大事なんだね、と。高校生だしね。