・気合の入った味とは
気合の入った料理を食べたいといつも思っている。それ以外は食べたくない。じゃあ気合の入った味とは何かと聞かれると少し困る。自分で言った言葉には責任を持たなければいけないので少し考えよう。「おいしさ像を発見設定時の気合い」と「実現維持する気合い」、この二つがあると思う。具体的な話をしよう。GOPのアナグラはすごいスープカレー屋さんだと思う。だいたいどうやってもおいしいスープカレーという料理、下品に作っても上品に作っても、薄くても濃くても、それこそ気合が入っていなくてもおいしいスープカレーという食べ物の中で、あのチキンときのこのおいしさ像を発見、設定したのは素晴らしいと思う。塩は強くしすぎず、粘度もあげ過ぎない。甘みも薄めで、物足りなくなりそうなところを、表面に浮いた油とスパイス感で、するっとおいしく食べさせる。香りの良さで食べさせるハーブ入りのサラダみたいなもの。具材に柔らかく煮たチキンとキノコを配することで、引っ掛かりがなく、調和が取れている。本当にすごい。このおいしさ像をどうやって見つけたのか、元ネタがあるのかはわからない。もしかしたらスリランカ狂和国(いわゆるスリ狂)がそういうタイプだったのかな。おいしさ像の発見、設定は大体2つのパターンがあって、違う料理から引っ張ってくる(ブラジルのフェジョアータのおいしさをスープカレーで表現したろ!みたいなこと)か、試行錯誤して半ば偶然たどり着くか。既存のおいしさ像に乗っかるのはここには含めないけど、一番多いのは既存のおいしさを真似することで、南インド屋も大体はこれをやっている。位が下の人間がやることだね。卑下しているのではなく、本当に。2パターンのいずれにせよ、おいしさ像の発見には、かなりのエネルギーを要する。時間も体力もやる気も必要。創作的な活動が世の中にあるとしたらこれだよね。誰かが見つけたおいしさ像に乗っかるのと、自分でおいしさ像を見つけるのは、大変さが全然違う。乗っかるだけなら凡人でもできる、というより、凡人の方がさらにそれを洗練させたりするのは得意なのがこの世のままならなさで、経済的に成功するのはうまく洗練させたりうまくダウングレードして普通の人間にもわかる形にした人なんだろうね。話がそれた。目の前の料理を食べて、このおいしさ像はすごい!と感じるのは、もちろんその料理の特性としっかり合致した、まさに素晴らしいおいしさ像を感じた時が最上で、それが自分の好みに合っていればなお良い。たとえちょっと変なおいしさ像であっても、自分の好みと合っていないなくても、おいしさ像がはっきりと設定されているものは、すべて素晴らしい。敬意を払うべきと思う。そしてそういう、おいしさ像がはっきり感じられる料理というのは、一人の人間が仕切っている料理で発現しやすい。船頭多くして、ということかもしれないし、権限が分散していると薄まるのかもしれない。ここまで話が進むとわかるのは、なぜ食通と呼ばれる人間がジャンクフード的なものを下に見るか。ジャンクフードのおいしさは、脳の仕組みをハックしたようなおいしさ像で、つまり、ラーメン共和国における炙りチャーシューとか、何にでも乗るとろーりチーズとか、卵黄とかニンニクとか胡麻油とか、そういう、汎用性のあるジャンクおいしさ像(像と言うよりジャンクフィルターか)の発見設定は、それほど価値がなく、スープカレーに炙りチャーシュー乗せました!こだわり!と言われても、はいそうですかおいしいですね、と冷めた気持ちになる。話は逸れるけど、新たなジャンク手法を発見するのは、それはまた別の話で、そんな脳のハックの仕方があったのか!という発見もまた素晴らしいことだと思う。安易なジャンクに逃げずに、おいしさ像をちゃんと設定した料理には、僕は気合を感じる。躍動を感じる。この後の話につながるのだけど、新しいおいしさ像だけが素晴らしいのではなく、すでに知られているおいしさ像を逃さず捉えたものは、十全に素晴らしく、気合を感じる。なぜなら、既知であろうとも、おいしさ像を見極め、それを実践することは、非常に難しいことだから。
・続・気合の入った味とは
ジェラートやさんの話をしよう。札幌三越の地下一階に入っている、肉屋さんの奥にあるE.denというジェラートやさんがおいしい。はっきり言って、おいしいもの、気合の入ったものが出てくるような立地ではないはずなのに、気合の入ったアイスが出てくる(ジェラート言うよりアイスと呼んだがしっくりくる)。翻って、円山の方にある、あるジェラートやさんは本当に気合の入らないものを出している。店名は出さないよ!流石に!具体的に両店のどこに差があるのか、僕がアイスを作ったことのない素人であることを断った上で言うと、まずは有効成分の量の差だと思う。コンディションもかなり差があって、だめ店の方は、なんだか緩んでいて、冷凍解凍したタラコみたいな印象を受ける。阿佐ヶ谷のシンチェリーナのジェラートも柔らかかったけど、なんだろう、解凍たらことは思わなかったんだよね。何が違うのか僕にはわからない。一応言うと、甘くて冷たいアイスはそれだけでおいしいから、ダメ店とはいえおいしいんだけどね。そう、有効成分。特に香りの良さと、脂質の量が違う。香りがいちばんの差かな。サイゼリヤの社長も香りで差がつくと言っている。口に入れた瞬間の幸福度は、やはり香りによるところが大きいと思う。濃縮還元のジュースでなく、絞ったフレッシュジュースの幸福感と同じ話。アイスにいちいちフレッシュな材料を使うなんて、大変なことが目に見えている。コストはまあお金で解決できるけど、仕入れと仕込みの大変さが大変さが段違いになるはず。E.denのプラムのアイスはおいしかった。そらあプラム買ってきて潰してアイスにしたらおいしいのは誰でも知っているし、それがおいしさ像を捉えることになるのはわかっていても、やっぱり店舗として継続的にそれをやるのは、気合がないとできないんだよね。やっぱり気合だよ気合。料理は気合。ジェラートを商品として捉えた時には、おそらく円山の店の方が正解で、多分どかっと作って裏の冷凍庫に突っ込んでおいて、あとはアルバイトが適宜取り出してセッティングすればそれで良い。昨今、スーパーで売っている森永とか明治とかのアイスは本当にレベルが上がっていると感じる。それらの高くても一個250円みたいなアイスと競わなければいけないのだけど、気合の入らないジェラート屋さんだと、これなら明治でいいかなと思う程度の魅力しかない。容器に移し替えてブラインドでテストしたら、僕は当てられない自信がある。そう、有効成分に差があるということは、端的に言うと増粘多糖類がたくさん入っているような味になる。実際はどうか知らないけど、味の密度が違ってくる。気合の入った味とは何かに話を戻そう。おいしさ像を発見設定する気合いだけでなく、それを実現して維持する気合いも必要になる。これはもう、おいしいとかおいしくないとかでの舌の上の話でなく、美しいとか尊いとか、そういう表現をすべき話だと思う。生命讃歌だよ。たとえ売れ残ろうが、味のわからないやつに「なんか酸っぱくておいしくなかった」と言われようが、それでも自分の信じるおいしさを貫くには、気合とか、狂気と呼べるものが必要。まじで必要。普通の人間には、売り上げが落ちた時に味を落とさないことは、ほぼ不可能だと僕は思っている。文字通り金をドブに捨てる行為だからね。狂っていないとできない。もしくはビジネスの経験があって、ある意味離れて考えられるような人なら、「ここは耐える時だな」と思えるかもしれないけど、僕のような素人には本当に難しい。プラムを買ってきて潰してアイスにしたものが売れ残った時、それを躊躇わず捨てて、次の朝にもう一度プラムを潰して仕込む覚悟が俺にはあるだろうか。それができないであろう僕は、せめて誰かが気合を入れて作ったものを、「気合が入っているな」と感じ取れる消費者でありたい。