2019/01/27
●ひとに教える、ということ
ひとに料理を教えて暮らしている。講師と言ってよいと思う。僕は、ひとに何かを教える、ということに、つよい抵抗を感じている。ならやめれば、と言われそうで、自分でもそう思うけど、やってみたら思ったよりうまくいっているから、良しとしている。いつも有難うございます。なんで抵抗があるのか、と考えると、たぶん、教える、ということへの抵抗はそのまま、学校に対する嫌悪で、教師がいて黒板があって机が並んでいて、という学校の授業への嫌悪と、学校という存在そのものへの嫌悪、ふたつが混ざっているのだと思う。まあ、学校が嫌いなのは当たり前だから後者は置いといて、授業への抵抗、というより嫌悪。授業は、嫌い。ほんとに嫌い。15年間くらいの記憶がすっぽり抜けているくらい嫌い。授業の内容なんて、授業が始まって5分で、僕の中では終わる。残りの時間は、ただ座っている。まさに無駄。どうするのこれ、と毎時間思っていたわけではなく、慣れるもので、だから大人になって久しぶりに運転免許の講習を受けたりすると、鳥肌が立つくらい嫌な気持ちになる。思考速度よりゆっくり進む世界で座っている辛さは、きっとこの雑記を細かく読む人にはわかってもらえると思うけど、ぜひ、youtubeの再生速度を0.5倍にしてドラマを見て、体感してほしい。辛い。独特の辛さがある。なんなんだこの辛さは。そして、そういうスピードの問題だけでなく、講義形式も嫌い。いまこうやって書いていても、なにか重たい扉が開く音が、自分の中からはっきりと聞こえる。教師が喋っているのを聞く、ということが、自分の理解、学校で言うところのテストの点数には、つながらない。当たり前。みんなで声を合わせて音読して何になるの?ねえ?しかも遅い人に合わせるからスロー音読だよ? かっこの中を空欄にしておいて生徒に書いて埋めさせるって、ほんとにそれがベストな方法なの?ねえ?その小細工感はなんなの? 興奮してきたからこれ以上詳しくは書かないけど、そういう嫌悪感が、ひとに教える、という行為への嫌悪感に直結しているのだと思う。たぶん、お父さんが嫌いだから、あえてお父さんと真逆のタイプの男と付き合う、みたいなもので、そこに、相手からお金をもらう、相手のお金を減らすことへの罪悪感もあいまって、僕のやっている料理教室は、ものすごく詰め込んだ内容になる。事前にレシピはアップするし、いつでも止めて質問してくださいと言うし、最後の食事の部分だけとっても満足できるくらいにする。でも、それがやりすぎなのだと、最近、やっと分かってきた。お金を頂戴するときは、有難く頂戴すればよいのであって、罪悪感はいらない。そしてそもそも、僕の設計している教室が、本当に、参加者の目的に合致するのかも怪しい。3時間かけて3品作った方が良いのかもしれない。僕のやっていることは、ただしい意味での拘り、だと思う。そこまで分析してもやっぱり、教える、ということには、抵抗がある。やっぱりある。たぶん小学生くらいの自分が黙っていない。でも、お金をもらうのは嬉しい。それは小学生の僕が知らないこと。お金をもらうのは嬉しいし、稼ぐのはもっと楽しい。だから、明日もやる。来週もやる。