食事のことを、「食」と呼ぶひとたち

二年くらい前のことだったと思います。札幌に、ダライラマ法王が来ました。

講演をするとのこと。主催は札幌青年会議所でした。会場につくと、やけに良いスーツを来た若い男たちが、これはネットワークビジネスなのか?という雰囲気を醸し出しています。ちなみに、タイトルはUniversal Responsibilityです。格好良い……。

講演の前に、札幌青年会議所の構成員による、よくわからない説教がありました。音量のやけに大きい、視覚効果たっぷりのパワーポイントで、「われわれの世界とは」「未来につなぐ、この思い」「自分たちひとりひとりにできること」というようなこと(うろ覚え)を仰っていた気がします。これを聴いて、会場の気持ちはひとつになります。「はやくダライラマの話きかせろ」。

ダライラマ法王は、面白いおじいさん、というかんじでした。

内容は、怒りのコントロールとか、平和とか、教育とか、そういうことだったと思います。

気になったのは、通訳です。通訳の50歳くらいの女性は、発話を一字一句すべて訳さないと気が済まない性質らしく、ダライラマが発話を区切り、さあ訳して、と合図をすると、そこからダライラマ以上に長い通訳の話が始まり、聴く方も、もしかしたらダライラマ本人も、話の流れを追えなくなりそうなほどでした。通訳って難しいですね。ダライラマ法王もあまりの通訳の長さに、訳している最中は暇そうに服をいじったりしていました。

講演が終わると、質疑応答です。

ほとんど忘れてしまいましたが、二人だけ覚えています。

3人目くらいに質問した女性です。

「ご、ご、56億7千万年後の※※※に、ダライラマ法王はどのようなかたちで※※※※!!!???」という質問です。ダライラマの側近のような、いかにも賢そうな男性が、通訳として耳打ちします。

御大答えるに「アイ ドン ノウ!」

すばらしい返しです。会場は拍手に包まれます。

次の男性は、たしかひょろっと痩せていた気がします。

「本日はとても興味深い内容の講演でした。ありがとうございます。ひとは、食べたもので作られている、と言いますが、そこで……われわれの……『食』………については、どうお考えでしょうか。」

というようなことを言います。

『食』のところは、はっきりと区切って、明瞭に発音しています。

ダライラマ法王、ちょっと困ってから、「まあ、宗教とかいろいろあるし、食べ物に関してはみなさん色々お考えでしょう。そういう文化的側面も鑑みながら、個々人が好きなように、極端にならないように、節度をもって、食べればいいんじゃねえの。ちょっと質問の意味が分からないのだけど、これで答えにっているかなあ。これでいい?」

というかんじで答えました。男性、やや不満そうに、ちょっともごもご言ってから、有難うございますと質疑を終えました。

こういうふうにして質疑が終わり、会長のかわいくもない子どもが壇上で花束を贈呈して、お開きです。自分の子供にやらせるってのが、いいかんじですね。店員Aによると、むかしの田舎の社長がやりそうなこと、だそうです。

さて、こういう風にして、食事や食べ物のことを、「食」と勿体つけて言う人が、けっこういると思います。皆様のまわりにもいませんか?SNS上で活発に活動する人が多いです。

いわく、「食」の大切さを伝える、「食」とどう向き合うか、われわれの人生における「食」、云々。

どうしても、目はキラキラしてしまいそうです。玄米、オーガニック、断食、マクロビ、一汁一菜……というワードが想起されます。

「食」って、なんなのでしょう。「食事」でも「食べ物」でも「食卓」でもなく、「食」なんですよね。

おそらくですが、「食」の大切さ、と言うときには、このような意味合いなのだと思います。

「残留農薬とか遺伝子組み換えとか、そういう意味での食べ物の安全性や品質の大切さ」

「食事の、栄養学的見地からのバランスをとることの大切さ」

「食事を、一国の文化としてとらえることの大切さ」

「家族の団らんとしての食卓の大切さ」

などです。これらをひっくるめて、「食」と言うのだと思います。だからさっきの男性はダライラマ法王から、このような言葉を引き出したかったのだと想像します。

「そうですね……『食』……というのは、とても大切です。食事と言うのは、単にお腹がいっぱいになれば良い、というような考えではいけません。基本になるのは、お母さんがきちっと手作りした、栄養バランスの取れた食事です。それだけでなく、食事とは、連綿と受け継がれてきた文化としての『食』を継承する場でもあり、なにより、その文化が培ってきた食事というのが、もっともその国の人間には適しているのです。だから、味噌や精白していない玄米、発酵食品である漬物などを、日本人はもっと大切にするべきでしょう。そして、『食』とはつまり、カラダと大地の交流であり、同時に魂と大地の交流でもあります。大地をしっかりと踏みしめ耕した土から、その恵みとして結実した作物を、われわれは、文字通り、「頂く」のです。そして食卓は、その接点であり、大切な、「場」なのです。そこで、お父さんとお母さんと子供たちが、そのような『食』の大切さを語り合える、そういう食卓こそが、素晴らしい食卓なのだと思います。このように、われわれは、もっと『食』を真剣に見つめなおすべきです。きっとあなたもそのように、『食』に関わる仕事をなさっているのでしょう。目を見ればわかります。その仕事は、地味かもしれませんが大切な、とても大切な仕事です。これからもがんばってください。応援しております」

もうこれは、落涙、滂沱としてやまず、ですね。

『食』と言ってごまかさずに、食べ物、食事、食卓、という風にきちっと言えばよいのに、と思います。ふわっとした言葉で、なんとなく格好いいようなことを言っている気に、本人も、聞いている方もなるのかもしれませんね。

ちなみに、僕も『食』に関わる仕事をしています。

これからも一所懸命、『食』に関わっていく所存です。

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コメント

  1. マキノ チエコ より:

    今日の記事も切り込みが鋭いですね!食事にそれなりのこだわりは誰でもあるでしょうけれど、食という概念が独り歩きしちゃうと、ちょっと、ですね。ダライ・ラマ法王の答えに親しみを覚えてしまいました(笑)

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