雑記2019/04/12「塩ゆでドラムスティック」「敬意と差別」

●塩ゆでドラムスティック

ルルモールでは、もちろんドラムスティックも売っている。大体の野菜は量り売りだけど、ドラムスティックは長いから、袋から飛び出す。値段は、安い。ドラムスティックリーフも安いし、たぶん、簡単に育つ植物なのだと思う。まずは茹でて食べてみよう、と思って塩ゆでにした。中に、豆になりかけの、さくっとした豆ができていた。ねっとりの中に豆があるかんじ。驚いた。たぶん、育ちすぎたもの、北海道弁でいう、おがりすぎたものを買ったのだと思う。そういえばけっこう太かった。でも、それはそれでおいしい。いつまでも食べていられる。そういえば、オーガニックコーナーにあるドラムスティックは、もっと細かった。次はもっと細いのを選ぼう。

●敬意と人種差別

先日、インドに対する敬意を問われた。その人はまあ、緩やかな機能的非識字だったのだろうけれど、おそらくこの狭いインド料理業界で一定数存在する、南インド屋に不満を持つ人たちの気持ちを代弁していたのだと思う。代弁者を自認する人ほどたちが悪いものはない。正義を冠するとなおさら。それで、敬意の話。彼、もしくは彼らによると、僕は、インドやインド料理、僕が影響を受けたり関係したりしているものへの敬意が足りていないのだという。へえ、そうなんだ、というかんじ。どうなんだろうね。

尊敬は、偶像崇拝だと思う。憧れ。メルヘンの世界。

僕は、属性で判断されると、すごく腹が立つ。子供のくせに、と軽んじられるのが何より嫌いで、大人になって本当によかったと思っている。だから僕は、できるだけ相手を、一個の人間としてそのまま認識したい。そこに、尊敬、というメルヘンの入り込む余地はない。個人ですらそうなのだから、それが、国や文化、となると、どうなるか。そうとうに頭の解像度を下げないと、尊敬したりされたりは実現しない。国に対する敬意、という、ざっくりした気持ちは、裏返すと、国に対する蔑視になって、それが人種差別だと思う。個人を目の前にして、その人そのものでなく、その属性で判断することを、差別という。マジリスペクトは、簡単に、マジキモイになる。解像度が低いから。この世界に、意識的な悪人は少なくて、解像度が低いゆえに愚に走る人間が多いのだと思っている。僕はどっちかな。良い人でありたいな。

ということを考えているから、インドやインドの文化に対する敬意を問われると、困ってしまう。いや、インド料理は好きだし、できるだけアレンジは加えたくないとも思っているけれど、敬意と言われると、困る。国旗に敬礼するわけにはいかないし、インドの大地に額づくわけにもいかない。しかも、インドに対する敬意を、インドリスペクトと表現して違和感を覚えない人間が相手であれば、なおさら難しくなってくる。100歩譲って、インドを尊敬することはできるけど、インドをリスペクトとなると、また違う問題。

実際問題、どうすればよいのだろう。僕が、インドへの敬意をもってレシピを作って、誰が喜んでくれるのだろう。ちなみに、解像度が下がっているから、分量はすべて、適量(御心のままに)、となる。いや、わかっている。わかっています。まず僕は、すぐにインドに行く。そして、道端のチャイを飲む。写真を撮って加工してからインスタにあげる。「一杯のチャイが、俺の小ささを教えてくれる。まだまだ道半ば。チャイ屋のオヤジは不愛想にうなずく」と書く。雑踏の写真を撮って加工してアップする。「つみ重なった空気が、ある」。八百屋の写真をアップする。「ただただ、圧倒される」。zomatoで選んだ食堂で「ガツンと殴られたような衝撃。ただただ、食べる。うまいと感じる暇もない。もどかしい」。日本に帰ってからは、先輩のインド料理屋に行く。「ちょっとは前に進んだ気になっていたけど、先輩の背中は、はるか先にある。この人はいったいどれだけのものを積み上げてきたのだろう。リスペクト」。いいね、気持ちよくなるね。そういう気持ちを大切にしたい。

※追記

インドリスペクトを意識的に使いこなす人のことは、リスペクトしています。