2019/02/26
●料理とポエム
料理を食べてポエムを吐くひとにはなるまいと思っている。料理を作ってポエムは、なお悪い。僕が今から柔道について語れと言われたら、なにも語彙を持たないから、きっとふわっとしたポエムになる。それと同じ。解像度が低くて、ポエムになる。何もわからないから、ポエムになる。でもなにか格好いいことを言いたいから、ポエムになる。大抵はそういうことだと思う。僕は言葉が万能とは思っていない。言葉にできないものが存在するのは、当たり前のことだと思う。葉っぱに定規を当てて、必ずぴったりミリの線に重なるわけもない。僕はフットサルが好きだし体を動かすのが好きだけど、そういうときの、なにか脳内物質が出て楽しくなるかんじそのものを、言葉で表現することはできない。あえて言うなら、楽しいよね、とか、そういう言葉になる。だから言葉で表現できない事柄はたくさんあって当たり前。そういう、言葉の機能そのものの問題でポエムになることと、よく知らないからふわっとしたポエムになることを、峻別したい。
ポエムは我々の世界のいたるところに潜んでいる。というより、世界そのものと言ってしまっても良い気がする。僕も、世界のごくごく一部だけ、新聞をひろげて数滴絵の具を垂らしたくらいだけ、世界に色がついて見えている。あとは見えないからポエムで埋めている。
厄介なのは、実はみんな、僕も、ポエムが好きだということ。白黒写真だと格好いいけどフルカラー、さらに動画でHDで4Kでハイレゾになったら、不細工なのがばれる。そういえば4Kって聞かなくなったね。ハイレゾが何かもわかってない。だから、白黒ポエムで世界を見るほうが実は幸せ。人間の頭は怠けものらしいから、すぐに、ポエムに飛びつく。どれくらい怠けものかというと、自称おいしいもの好きが、目の前の料理を見てなお、ポエムに走りたくなるくらい。ポエムは気持ち良い。
というのが、解像度とポエムの話。これだとまだ単純な話だけど、ポエムの世界は奥が深い。ところで、奥が深い、というのもポエム用語で、深さがわからないことを、奥が深い、と言う。正直に、私には見えませんと言えばよいのに。正直に行こうぜ。
そう、ポエムのひとり歩きの話。ポエムそれ自体が価値を持つ。ポエムだから良い。ポエムだから格好良い。ポエムだからおしゃれなんだ。料理においてもそういうことがあって、いやだなとうんざりしそうになって、慌てて大平原を食べてごまかす。六花亭は僕のポエム。ポエムってなんだ。ポエムが売り買いされる。ポエムを欲する人がいて、ポエムを放つ人がいる。料理だから、ポエム料理を欲する人がいて、ポエム料理を作る人がいる。幸せな世界。低解像度ポエムは、自然発生的で、その気持ちよさを知った人間がポエムを欲するようになる。そうなると、意図的にポエムを放つ人が現れる。当然の流れ。
飲食店における意図的なポエムは、たとえば、レストランの綺麗な内装とか、給仕する人の雰囲気とかは、ポエム装置とも言える。僕の中でそれは、コントロールされた、良いポエムで、好きなポエム。非日常感の演出と言い換えても良いと思う。しっかり考えられたポエムで、受け取るほうも、そのポエムをポエムと知って、正しく受け取り、ポエムにお金を払う。おお、もしかして文化と呼ぶのかそれを。
もっと下等なポエムもある。下駄を履かせる、下駄ポエム。ポエムそれ自体に価値を見出す人たちを相手に、料理にポエムを振りかけて売る。商売として成り立つなら、何にポエムを振りかけても良いのだけど、食べ物にふりかけて良いのかね、と僕は思ってしまう。まあ僕の好みは置いといて、下駄ポエムの下等たるゆえんは、実はポエムにお金を払っているのに、受け取るほうは、私はポエムにお金を払っています、という自覚の薄いこと。さきのレストランにおける文化のポエムとの違いたるや。誰だって、素晴らしい料理にお金を払いたいのであって、下駄ポエムに払っていると認めたくないのはあたり前。そして始末の悪いことに、おそらく、提供するほうも、どこまでが下駄ポエムで、どの部分が解像度ポエムなのかわからずに、ふんわりとポエムまみれにして売っていること。作るほうも食べるほうも、同じ夢を見たいのね。最初はコントロールしていたはずは、そのうち、自分がポエムに取り込まれることもある。ポエムをコントロールするのは難しい。至難。俺はポエムを振りかけて金を稼ぐんだ、という強い気持ちには敬意を払いたいけど、それができる肚の据わった人は、少ない。僕はそうありたい。
最近の流れとして、料理人の熱い気持ちにお金を払いたい!という考えがあると思う。あ、全部ぼくの妄想ね。マクドナルドの安いハンバーガーから見ると隔世の感。揺り戻しなのか。おいしければ良い、安ければ良い、ではなく、料理人の気持ちのこもったものを食べたいのだと。だからお金を払うのだと。素晴らしいよね。アートだよね。良い流れではあると思う。組織として運営している飲食店の進化スピードに対抗することはできないから、もう、気持ちで勝負ってことで、個人経営の店としては、それしか道がないのかもとも思う。
そういう、顔の見える料理人の心意気にお金を払いたい、という考えは、ポエムの自覚が始まった、とも言える。下駄ポエムが下駄ポエムじゃなくなるかもしれない。でも、きっとそれは、いばらの道。お互いかなりのコストがかかる。レストランの内装や給仕の精度を判定するのは、たぶん、慣れれば誰でもできる。ポエムを楽しめる人が多ければ、そのポエムが商売として成り立ちやすくなるとういうこと。それに比べ、料理に込められた思いを正しく受け取る、というポエム交換は、非常にむずかしい。難易度が高い。確かに、あると思う。料理人の気持ちが料理に表現されることはあって、それを正しく受け取ってお金を払う、という美しい交換が、無いとは言わない。ただ、能力の問題が出てくる。内装の良しあしは、誰でも慣れればわかる。果たして、そのチキンコルマのグレイビーに込められた思いを、正しく理解できる能力は、いったい何人が持ち得るだろう。しかも日本において。味覚とか嗅覚の先天的な要素も大きい。
僕は、無理だと思う。成り立たないと思う。
でも、それでも、そこをあきらめた瞬間、下駄ポエムに逆戻りする。ふわっとした、解像度の低いポエム愛好者だけがお金を払う世界になる。文化にはならない。それでも安易なポエムに流れず突き進むというなら、がんばれ、としか言えない。僕はあきらめた。200年後くらいに生まれ変わったら、もう一度試してみたい気もする。生物学的進化において、200年は、いかにも短い。下駄ポエムが進化するのに、200年は、短いのか長いのか。神のみぞ知る、ということでここはひとつ。