ひとに褒められるということ

南インドのミールス

厨房に立っていた時期は、お褒めの言葉を頂くこともありました。そして、褒められたときこそ、気をつけるようにしていました。今もそうです。

ひとに褒められると嬉しいですが、本当は、あまり褒められるのが好きでありません。

褒められるのが好きでない理由は、三つあります。

大したものを作っていないから、ひとは本当のことを言わないから、そして、自分で自分を褒めるのが一番の原動力だから、という三つです。

ある程度の普遍性をもつことだと思うので、長々と述べていきます。

理由①大したものを作っていないから

プロって、すごいと思います。

プロとは何ぞや、と考えた時、もしお金をもらったらそれでプロと自称しても良いのなら、僕は料理のプロになりますし、先月、ブログ内でのamazonの広告で50円くらいが計上されたので、きっとブログのプロ、つまりプロブロガーなのだと思います。燦然と輝く、プロの料理人兼プロブロガー。

言うまでもないですが、自分では、まったくそう思っていません。

僕の思うプロとは、どんな人かと言うと、ウサイン・ボルトは圧倒的なプロフェッショナルですね。500種類くらいの料理を作れる、中華料理のシェフってのもプロっぽいです。外園一馬さんというスタジオミュージシャンも、プロですね。歌うようなギターを弾きます。すごいなあ、と思います。ナンシー関も、消しゴム版画と文章、どちらもプロですね。I miss you ナンシー。

こう書いてみると、希少性というのがプロの条件に挙げられそうです。俺、朝起きてから顔を洗うまでの流れがすごくスムーズで、まじプロなんだよね、と言っても、それはきっとプロではありません。いくらスムーズでも、プロではありません。俺は酒飲みのプロだなガハハ、と言われても、氷点下のすすきので凍死してやっと一人前かな、という気がします。

単なる希少性でなく、専門性、という言葉を使うと良いかもしれません。

もし、朝起きて顔を洗う、という習慣が、世界で10人くらいしかもたないものなら、さっきの男性には希少性がありますが、それを専門性と言ってよいかは疑問です。中華料理のシェフは、世界に数万人いるのではないかと思いますが、希少性は低くとも、専門性が高く、プロっぽく思えます。高い参入障壁の向こう側にいるかどうか、ということかもしれません。習得に困難を伴う高度な技術を有しているか、ということです。

でも自分はプロじゃない

前置きが長くなりましたが、そういう意味でのプロかと自問すると、はっきりと否と答えます。

札幌で、あっさり目のミールスを作らせたら、おそらく僕が一番うまいと思います。競争相手がほとんどいないのですから。日本全国で見ても、おそらく上位には来ます。全国規模でも、やっぱりマイナーな分野です。そういう意味での希少性はあります。

では、僕の作っていた料理に、高い専門性があるかというと、そんなことはないと思います。詳しくは前のコラムでも書きましたが、誰だって作れると思っています。とくにあっさり目のミールスなんて、調理工程はシンプルですし、時間もかかりません。あとは、慣れと投資の問題です。作り方に関しても、ほとんどは公開情報から得たもので、秘伝はありません。このブログの中に、ここだけの話、はほとんどありません。

だから、僕は自分がプロではないと思っています。お店をやっているときも、自分の作ったもので喜んでもらえたり、時にはお褒めの言葉を頂くと、とても嬉しかったですが、つい、「いや、作るのは簡単なんすよ、へへへ」と言いたくなりました。実際に、言っていた気もします。

そういう意味で、大したものを作っていないから、褒められるのが好きでは無いです。それでもみんな僕を褒めて!もっと褒めて!

理由②ひとは本当のことを言わないから

ひとは、本当のことを言わないから、褒められるとすごく嬉しいですけど、いや待てよ、となります。飲食店をやっていると、お褒めの言葉を頂くこともありますが、それで自分がプロであると舞い上がってはいけないと、常々自戒していました。

社交辞令としての褒め言葉

飲食店だけの話ではありません。ホームパーティーの場合もあります。

ホームパーティーで、出てきたものを批判するのは、ご法度です。お金を払って食べるものなら、「これしょっぱい!」と言えても、作ってもらって、材料費も払っていなくて、もちろん水道光熱費も払っていない人が、「これおいしくないね」とは、なかなか言えないと思います。

だから、カレーをひとに振る舞って、「わあ、おいしい。お店はじめてよー。ぜったい常連になるー」と褒められても、気をつけなければいけません。それは、代金がわりの世辞の可能性もあります。

飲食店やホームパーティーだけでなく、材料費程度のお金だけ集めて料理教室をして、作ったものをふるまい、その実、鍋や密閉容器の宣伝をするような場も存在します。

きっと参加者は、「おいしー。すごーい。簡単なのにおいしー」と言うことでしょう。そうして、何度も何度も百回くらい繰り返し褒められると、つい自分がプロのように錯覚してしまいそうですが、たぶんあなたはプロではありません。本来は、材料費に場所代に光熱費に人件費に、と考えれば、ひとり5000円もらっても良いくらいです。その差額の世辞かもしれません。そういう可能性もあります。

お金の問題だけでなく、ひとに面と向かって「まずい」と言うのはそもそも勇気がいりますし、言われた方がきっと傷つくであろうことを考えると、「まずい」という代わりに「おいしい」と言うほうが、ずっとずっと楽です。

他には、こういう問題もあります。これもひとつの「本当のことを言わない」人たちです。

口に出して褒める人って、どういう人?

カレーマニアをあてにしてはいけない、と教わったことがあります。ミールスというマイナーなものを札幌で出し始めると、どこで知ったのか、カレー好きの方々が、食べに来てくれました。写真を撮ります、喜んで食べてくれます、どうやって作ってるの?と質問してくれます、ブログで取り上げて褒めてくれます。

けれど、次に来るのは半年後です。こういう人たちの褒め言葉は、どう受け取ったら良いでしょうか。少なくとも経営的には、黙って食べて、黙ってまた来てくれる、マニアじゃない普通の人が、一番有難いのです。

こういう場合もあります。

知り合いの面白いおじさんは「俺は雨の日にデパートの化粧品売り場に行くんだ!こういう日は客が少なくて、有難がられるんだ!」と言います。そういうおじさんは、もちろん飲食店では「うまい!うまい!笑顔が良いな!」と褒めてくれます。もしかしたら単純に、インド風味の店員Aの見た目が気に入っているだけかもしれません。

日本において、飲食店で料理を褒める、というのは一般的ではありません。それを、あえて褒める人は、もしかすると、単純に料理の中身を褒めているのではないのかもしれません。

かなり偏った考え方ではありますが、こういう意味で、ひとは本当のことは言わない、と考えています。だから、褒められのが、大好きではありません。

理由③自分で自分をほめるのが一番の原動力だから

無根拠な自信が一番強い、と言ったのは安田隆だったと思います。自分はできる、という無根拠な自信を持って迷わず努力し、成果を積み重ねられる人が、一番強いのだと思います。だから、自分で自分を褒めるのを原動力にするべきと、常々思っています。

逆のパターンを考えます。承認欲求、というとシロクマの屑籠というブログを連想しますが、そういう、他人から認められたい、という欲求で行動し、料理を作ったとすると、どうなるでしょうか。つまり、自分の原動力や評価基準を、他人に求めてしまうと、どうなるでしょうか。

既に書いたように、料理を作って褒められるのは、難しくありません。一番簡単なのは、作って無料で振る舞うことです。簡単です。お金を配れば感謝されるのに近いです。飲食店としてやっていても、お客様やメディアに褒められるだけであれば、そこまで難しくありません。

つまり、他人からの評価を求めるのであれば、満足するのは、そこまで難しくありません。

だから、褒められて、そこで満足して止まってしまうかもしれません。あとは、より褒められるように褒められるように、と流れていきます。もし、その褒めてくれる人が名伯楽であれば問題はありません。ただし、世に名伯楽はすくないのです。

だから、自分で判断し、自分で自分を褒めるのが一番だと思うのです。

自分の料理を一番把握しているのは自分

食べ物って、ほんとうに好みが分かれますよね。知り合いがおいしいと言っていたタイ料理屋さんに行って、グリーンカレーペースト味のパッタイや、べっちゃべちゃのチャーハンが出てきて閉口したことがあります。きっと世界のどこかで、この瞬間にも起きているであろう類の悲劇です。あ、食べログは便利ですけど、まあ、食べログは食べログですよね。

人間は、自分の肌から1mmでも離れてしまえば何も知覚することはできない、という考えもありますし、そもそも肌の内側のこともわからないかもしれません。われ思っても、ほんとにわれはいるんかいな、とも思います。

だから当然、他人の味覚は信用できません。極論ですが。

そして、料理そのものを一番よくわかっているのは、作った本人です。ああ、今日のいまひとつだったなあ、と作った方が思っても、食べた他人がおいしい、と言うことはあります。そもそも人間の感覚では、客として料理を食べた時に、微妙なちがいを検出することは、かなり難しいです。僕も当然できません。バレエの格言を持ち出すまでもなく、変化に真っ先に気が付くことができるのは自分で、もっとも騙すのが難しいのは、自分なのだと思います。

名伯楽なら、きっと自分以上に正確な判断をしてくれるのでしょう。

誰に褒めてもらいたいの?

また、ひとつのカレーを食べて、辛いと言う人もいれば、辛くない、と言う人もいます。どちらかが味覚音痴の可能性もありますが、そうでなく、好みの問題だとしら、どうでしょう。

無数に存在する、それぞれの好みをうまく集約して、それを示してくれる名伯楽に出会えたなら幸せですが、そうでなければ、場当たり的に、褒められる方、褒められる方、にふらふらと流されてしまいます。

飲食店であれば、褒められる味=売れる味とも考えられます。とにかく常連さんにもネットにもグルメ雑誌にも惑わされず、売り上げの数字のみを指針とすれば、大間違いはしないような気がします。それってきっと、とても難しいことです。少なくとも僕は、できる自信がありません。

話が料理から離れて一般化してきていますね。最後なのでご勘弁ください。

お金と名誉と権力をもったとき、自分を褒めてくれる人は、いくらでも見つかると思います。また、お金と名誉と権力を失ったときでも、そんな自分を褒めてくれる人は、やっぱりみつかります。

そんな、移ろいやすい他人の評価を基準にしたり、それを原動力にしたりするよりも、他人の褒め言葉や批判は、「なぜ褒めてくれたのか」「なぜ批判されたのか」は真摯に検討しつつ、最終的な基準は自分の中に置くべきです。そして、それを満たしたときの達成感を糧に、黙々と精進するのが、一番だと思います。だから、褒められるのが、好きではありません。

と、長広舌をふるいましたが、まあ、やっぱり、褒められのも大好きです。