2019/01/22
●学校では教えてくれない何か
今僕は30歳。世の中には考えなしが、まあ沢山いる、ということに気がついて楽になったというか力が抜けたというか大人になったというか。へ!世の中バカばっかだぜ!と言ってしまうのは簡単だけど、もうちょっと違う言い方をしたい。人間と言う生き物の分布としてそうなっている、というのはたぶん事実だけど、そうではなく、もうちょっと主観の話。僕は食べることが好きで、おいしいものが食べたい。おいしいものを作りたい。いわゆるこだわりがあるのだと思う。けれど、歌に関しては、気持ちよく歌える曲であればいいかな、と思っているところはある。たぶん、その世界のひとに言わせると僕は、感覚が鈍い大衆。歌についてはまだよい方。たとえば僕は、パラシュートの畳まれ方とか開き方については、まったく知らない。小さくなって、開けば大きくなって、着地できればいいんじゃないの?くらいに思っている。きっと、パラシュート界隈の原理主義者は頭を抱える。僕の顔を見るのも嫌だろう。これだから素人は困る、と。他にも幾らでも挙げられる。世の中には、いろいろな知識が無数に散らばっている。でも、人間が興味を持って蓄えられる知識や、磨ける感覚には、限りがある。僕にとって、世の中は、舌ばかばっかりの嫌な世界だけど、料理が得意である人間から見てそうなのは当たり前で、たぶん食べものに執着の無いAさんは爪楊枝の歴史に詳しくて、爪楊枝の歴史に疎い僕を見て、ああなんて愚かなんだろう、と思っている。まちがいない。そういう風にできている、というのが僕の理解。問題は、人間にとって世界が広すぎることだと思う。みんながラプラスの悪魔なら問題は起こらない。
自分のやりたいことと売れることの狭間でうにゃうにゃする、という命題がある。まあそうだよね。ラッサムはトマト抜きの方がうまい、と思う層なんて、スライスした生ハムくらいの薄っぺらさで、そんなのを相手に商売をしたって、小金にしかならない。ラッサムを大金にするには、一握りのラッサム愛好家でなく、ラッサムに興味を持たないその他大勢99パーセントの大票田にアタックしないといけない。商売としては当たり前のこと。そしてそれは、多分いろいろな世界で起こる。僕はそんな大衆ラッサムは好きでは無いけど、そういうおいしさもあるよね、と微笑むのが大人の所作。微笑んで大衆ラッサムを作る。喜んで作る。まあ、あんまり長くやるとすり減るから、ひとを雇って作ってもらう。美しい仕組み。
というようなことを体感してから、あんまり、自分のやりたいことと世界で売れているものとの差には、悩まなくなった。ゼロではないけど、ま、そんなもんだよね、と思える。最初に戻るけど、世の中には考えなしが多い。それは事実。そして、ここまでくると、もう一つの考え方ができる。そもそも、「考える」という行為は、そこまで一般的な行為なのだろうか、と。もしかして、たまたま知能指数が高くて、たまたま集団行動が苦手な人たちが嗜む、趣味的な行為なのかもしれない。さすがに限定しすぎだけど、だとすると、もう、サウンドオブサイレンス。良い曲。歌うのも楽しい。