「バゲッ・トハディスィオン」と言いたい

仕事を辞めた次の日にはもう、飛行機に乗って、フランスに向かっていました。パリの2区にすこしいて、そのあとは、ルーアンという都市に行きました。

何をしていたの、と訊かれると、散歩と昼寝と料理、と答えるしかありません。オペラ座は遠くからちらっと見ただけで、結局エッフェル塔も、よくわからないままでした。凱旋門は、自転車に乗りながら見ました。

とにかく、フランスは、パンがおいしいです。

街を歩いていて、適当なパン屋さんに入ります。バゲットは大抵、傘入れに突っ込む要領で、縦にして置いてあります。

フランス語は、ボジューくらいしかわかりません。

「バゲッ・ シルブプレ」

と、わざとたどたどしく言うと、店員さんは、指で、ひとつ?ふたつ?と訊いてきます。人差し指をたてると、ウィムシューとなります。僕はぎりぎりムシューなのですね。

そして、住まわせてもらっている夫婦の家に持って帰ると、旦那さんもバゲットを買ってきていました。すこし色と形が違います。食べてみると、旦那さんの買ってきた方は、よりがっしりして、滋味がある気がします。baguette traditionという、普通のバゲットより古い方法で作られたものだそうです。値段も少しだけ高いです。

baguette tradition!

baguette tradition!

なんとも、目もくらむような格好良さです。

さすがフランス、traditonを大切にするんですね。永井荷風も同じように目がくらんだのでしょうか。

パリの町はとくに汚くて荒んだかんじがしますし、あれ?工事現場には白人らしい白人はいないな?なんでだろう?とか、カフェは白人だらけだな?とか、いろいろと問題はあります。けれど、その格好良さで、すべて帳消しです。

さあ、明日からは僕もbaguette traditionを買って、traditionを愛好する渋いムシューにならないといけません。より硬めのバゲットは、僕の顎にはほんとうに硬いし、口の中が傷つく気もしますが、なんてったてtraditionです。お洒落は我慢なのです。

言うまでもなく、「バゲッ トハディスィオン」と言いたいだけです。ちなみに、スィオンなのかシオンなのかはわかりません。なんとなく、その辺にるムシューの発音は、スィオンに近かった気がするので、真似していました。

いや、響きだけでなく、味としても、より古風なかんじで、僕の好みに合う気がします。

気がしますが、旅の高揚感や、traditionの興奮、そしてセーヌ川の移ろいやすい靄の中、自分の舌が正確な判断を下していたと断言することは出来ません。インドに食べに行ったら、そりゃあうまかろう、というのと同じです。

そんな調子で、連日baguette traditionを買っていい気分になっていたのですが、ある日、帰ってみると、旦那さんが、いつもと違う色のバゲットを買ってきていました。

baguette traditionよりもっと色が濃くて、カサカサしています。麻の実が入っているようです。traditionが格好良さの極地だと思っていましたが、「いやあ、バゲットが売り切れちゃってて」と言う旦那さんが切るさりげなさには、自分の買ってきたbaguette traditionが霞みます。

 

なんて言ったら買えるの?そっちを買ってみたい!